週刊コーチングとは<14>自助努力と自己責任

こんにちは!コーチ敬人です。

事情により、2週おやすみしました。
お休みしている間に、サッカーW杯もアルゼンチンの優勝で幕を閉じました。
コアなファン、にわかファン、いずれの日本のサッカーファンにとっても、熱狂できたW杯だったのではないでしょうか。

もちろん、日本チームがドイツ・スペインを破りグループリーグ1位で16強を果たし、さらにクロアチアを相手に一歩も引かず引き分けたことは、大きい。
しかし、それ以上に、今回アベマTVが全試合無料放送をしたことも大きいのではないでしょうか。

ここで、なんのためにコンテストや大会、広い意味でイベントモノがあるのか今一度考えてみたいと思います。
第一の理由。
それは、もちろん、勝者と敗者をうみだすためではありません。
お金のためでもありません。

最大の理由は、そのコンテンツの裾野を広げるためです。
ピアノのショパンコンクールは、ショパン作品のすばらしさ、ピアノという楽器のすばらしさを、すでに魅了されているプレーヤーの技術を競うことを通じて、そうでない人にも知ってもらい裾野を広げるのが、最大の目的です。
これは、英検や漢検、私が今年かかわっていた災害救助犬試験(IRO国際救助犬連盟公認試験)といった資格認定試験も同様です。
ついつい合否や勝ち負けで一喜一憂しがちですが、それは次善事。

次善の理由は、その他にも、大会・試験参加者のさらなる技術アップや、参加者のPR、ファイナンス等いくらでも上げることができます。
できますが、唯一絶対の存在理由、それは、そのコンテンツのすばらしさを伝え「裾野を広げる」です。

ですから、コンテストや大会、イベントのルール策定基準、つまり「それをやっちゃおしまいだ」「これをやらねばうまくいかない」をわける基準は、「それをやったら裾野が広がるか否か」なのです。

その点で、アベマTVの全試合無料放送はすばらしい努力をしたのではないかと思うわけです。
日本とは昼夜逆転する試合時間の中で、ライブ放送、フル視聴放送、ハイライト放送などさまざまなコンテンツを提供してくれました。
おかげさまで、リアル視聴以外にも、(試合結果を見ずに)フル視聴倍速で、全64試合のうち38試合を見ることができました。
こんなことは、今までにはないこと、というかできないことでした。
サッカーを好きになってもらうために、不特定多数の人にサービスを提供する。
これは、近年忘れられてきたスピリットのような気がするのです。

もちろん、その裏には、アベマTV自体の普及のためとか、収益とか、さまざまな理由を上げることができるでしょう。
ただ、そのために多くのリスクをとることになります。
そのひとつが、無料放送による回線のパンクです。
当然、インターネット回線を通じてのサービスとなりますので、アクセス集中に対する備えが必要です。
特にW杯は40億人近くの人が視聴する、オリンピックを上回るイベントです。
全世界からアクセスできるネット配信でどこまでサーバー・回線の準備をすればいいのか、は、地上波放送とはことなる悩みとなります。
(有料放送にすれば、登録者分の準備をすればいいので、そういった懸念は払拭できます)
実際、社長の藤田晋氏はその懸念から、カタールのスタンド席は確保していたものの、渡航は断念。
その結果、大きな障害はおこさず無事閉幕、日本対クロアチア戦では1日2500万アクセスという記録だったとのことです。

当然、ですが、その成功の責任をアベマはとることになります。この成功を、アベマ視聴者につなげ、いいコンテンツを提供し続けるということです。
もし、失敗してもその責任をとることになります。
成功・失敗、それは、事前にアベマ自身が想定することです。
そして、どちらにころんでも、成功だろうが失敗だろうがその責任をアベマはとるのです。

これが、自己責任です。

つまり、自己責任とは、どんな結果だろうと、結果を引き起こした当人が責任を負うということです。
責任を負う、つまり、その後始末だけでなく、継続拡大活動を実際行う、実行する、ということです。
後始末にいいも悪いもない。とにかく、実行するのです。

そのためには、参入決定する上で、さまざまなシナリオを描く必要があります。
もちろん、お金の計算も含め。
自らどこまで行動できるか、を想定する必要があるということです。

とはいうものの。

実際には想定外のことが起きる。

実際アベマTVが放映権取得を決めるタイミングには、日本代表はまだW杯にでれるかどうか決まっていなかったはずです。
想定外の結果が起きても継続責任行動をとれるか。
これは、もう、最後えいや、なのですが、そのとき大切になるのが、「裾野を広げる」という大義というか、ゴールです。
これが、「勝つため」とか「お金のため」だとするとえらいことになります。
必ず、途中で何かあると責任のなすりつけ合いになる。
しかし、「裾野を広げる」というゴールがあれば、なんとかしようという気になれるのです。

そのためには。
当たり前な話になりますが、そのコンテンツについて、「やりたくてやりたくてしかたがない、好きで好きでしかたがない、とめられてもやりたい」というものである必要があります。そして、それを広げた結果がハッピーだという確信。これが不可欠です。これは、個人の心、脳にやどるものです。

このとき、目的にたいする視点としては、自我がなくなっています。
ひたすら不特定他者達に向けられている。
すくなくとも自分ファーストのかけらもない状態です。

おそらく藤田晋氏も、本音ではカタールに行きたくてしょうがなかったのではないかと思うのですが、アベマで数千万の人が視聴すると思うと行けなかったのではないかと思うのです。自分ファーストどころではない状態だったのでしょう。

さて。
最近の自己責任論、それは「自分のことは自分でやれ」「自分の責任は自分でみろ」というふうに使われているような気がします。
自分のお金、自分のキャリア、自分の仕事、自分の老後。自分、自分、自分。
その結果、世の中の思考が、自分のためにお金を稼ぎ、自分のために仕事をする、「自分のため」というマインドに傾きすぎている。
自己啓発についても、起業についても「自分がいい思いをするために自分のために勉強する、起業する」という姿勢がどうしても目についてしまう。
当然ながら、勉強も起業も、行動するのは自分。啓発するのは、自分。スタートは自分。しかし、向こう側というゴールには人がいます。
その、向こう側の人に向かわず、自分の方向にベクトルを向けても、知識も業も広がるはずがない。
当然、とるべき責任(いい責任にせよ悪い責任にせよ)も発生せず、しりすぼみすることになります。

たとえば、コロナ禍に東京オリンピックを強行開催するのを喜ぶ不特定多数は存在したでしょうか。外出制限をしながら開催すべきだったでしょうか。
あれは、4年後に延期するのが、不特定多数にとって、裾野を広げるという意味で、得策だったのではないでしょうか。
どうしてもやりたかった人というのは、一部の利権所有者だったのではないでしょうか。

たとえば、戦争というイベントや既存原発稼動年限の延長にしても、そこには「裾野を広げる」大義がない。
戦争被害を広げたり、原発被害可能性を広げるのを喜ぶ不特定多数は存在しえない。
喜ぶのは、一部の特定既得権者だけです。
そこには、必ず差別が生まれます。

敵基地能力をつけたところで、その後のシナリオを描けている人は政治家の中にどれくらいいるのでしょうか。
防衛費を拡大しつづけることの継続責任をとれる人、そのために行動できる政治家はどれくらいいるのでしょうか。

明治時代に入って2つの著書が大ベストセラーになったと言われています。
一つは、福沢諭吉の『学問のすすめ』(1872年)
もう一つは、中村正直『西国立志論』(1870年)
後者は、サミュエル・スマイルズが1859年に著した『セルフ・ヘルプ』つまり『自助論』の翻訳。

この自助論は、読めばわかりますが、「自分のために、自分のことはじぶんでやれ」という自己責任論を説いているわけではなりません。
「不特定多数の、社会のために自分を活かすことがいかに自分を成す上で重要か」を説いた本です。
しかも、その例としてでてくる人物の多くが辛酸をなめています。
それもそのはず、例として出てくる人物はみな、「未来の不特定多数の人々」のために、ことを行っているからです。
ということは、彼らがすったもんだしているその「現時点」では、彼らは未成功者であり、変な人なのです。
当然、反対にもあうのです。

そんなとき、本当に必要なのは、理解者です。未来の成功を信じることができる理解者です。
多くの場合、その理解者が一人いるかいないかで、かれらの活動が途中で潰えるか、最後までなんとか行き着けるかの鍵となるのです。

封建社会は江戸時代をもって終了しました。
そこで、登場したのが、上記2冊の著書です。
それから150年が経ちましたが、歪な差別制度が残ったままの世界はさらに『セルフ・ヘルプ』を必要とする時代に突入しています。

ただし、それは、「自分だけを助ける」というようなものではありません。
「未来の不特定多数の人々、つまり未来の社会のために何かを成すことが自分を活かすことである」という主張は変わりありません。
そのためには、未来のゴールに対し、たった一人でもよいから、あなたを100%応援する存在が必要です。
そして、それこそが、コーチングが求められる由縁であります。

まずは、コーチング説明を受けながら体験することができます。
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おまちしております。